「どこまでも、届け僕らの思い」
2011年3月11日の大震災から14日後に、被災地である宮城県に「災害応援にゃんこ隊」として向かい、そこで子どもたちに出会い2年が経過しようとしています。片道5時間の距離を日帰りや泊まりで訪問することも、もう30回を超えようとしています。
引き寄せられるように毎月訪問するようになった東松島市宮戸地区は、中越地震でにゃんこ隊が支援を継続した長岡市山古志と同じように、高台への集団移転を迫られています。住み慣れた土地を離れることがどれほど切ないことなのかを知っている僕らにとっては、不思議な「縁」さえ感じました。
僕らは新潟県で二つの大地震を経験しています。そこで、苦しかったですが子ども支援を続けているからこそ、知っていることがあります。それは、災害発生時において、子どもの遊びやお話相手などは、混乱している避難所生活では誰も向き合う余裕がないということです。だからこそ、どんなに多くの物資運搬や泥かき・瓦礫撤去などのニーズがある初期においても、子どもを支援することだけに徹することが僕らにできることだと信じて向き合い続けてきました。
普段はにゃんこ隊の思いを子どもへ伝えることは多くはありません。台風の目に向かって暴風雨の中新潟へ帰ったこと、自己責任で被災地に入った帰りに釘がささっていてタイヤがパンクしていたこと、訪問前日に新潟の雪をたらいに積み溶かさないように冷蔵庫のような車を運転したことなどハプニングや大変だったこともありました。ただ、津波で自宅を失い、仕事を失った状態で仮設住宅などでの生活を余儀なくされる子どもたちや家族のことを考えると苦労と呼べるものは小さなものです。流された家の門と表札だけが残る脇を通った時に、「これ僕の家があったんだよ」と教えてくれた時、とてもつらかったですが、まだ僕らにもできることがあると強く感じました。
仮設住宅を訪問して、温かい物をお届けするといつも「新潟も大変だったのに悪いねえ」と声をかけてもらいます。そして、「お互いさまですから」とこちらは答えます。僕らの願いは、一番つらい時しんどい時にただ一緒に時間を過ごし、元気になるお手伝いをしたいだけです。8年前に山古志の子ども達が受け入れてくれたように、今回も東松島の子ども達は僕らを「ともだち」として受け入れてくれました。その気持ちに本当に感謝しています。
僕らがこうして継続して宮城へ通うことができるのは、全国の皆さんの温かい応援のおかげです。最後に、たくさんの元気や勇気をいつも僕らにも与えてくる皆さんに伝えたい、どこまでも、届け僕らの思い「東松島LOVE」です。
災害応援にゃんこ隊 代表 河合 純
僕らがたどり着いたのは、地震発生後に松ヶ島橋が崩壊し、野蒜海岸と宮戸島を結ぶ唯一の手段が断たれ孤立してしまった宮戸地区でした。奥松島縄文村でたくさん遊んだね。
どんな寒くても、外で元気にたくましく遊んだね。水鉄砲で、ずぶ濡れになるまでかけたり、かけられたり。風邪をひかせたら悪いなとひやひやしていたよ。
新潟~宮城までシーバルク道具を山盛り積んで車を走らせました。仮設前広場にシーバルクを膨らませた瞬間、いつもと違った景色が広がって感動したね。