『東日本大震災 災害応援にゃんこ隊通信 宮戸小学校閉校式特別版

 

5年目 被災地の現状 』

 

 

 

 20114月から約5年間継続して支援してきた多く子ども達が通う、東松島市立宮戸小学校(旧 鳴瀬町立宮戸小学校)が閉校することになりました。地震後に人口が半減した影響から児童数が減っていくのは、毎月の訪問でひしひしと感じることができました。他県へ引っ越す子ども、近隣に引っ越す子どもなどは転校しても「にゃんこ隊は行く」と言って帰省する度に参加してくれていました。島を離れて、町場に生活の拠点を移す決断、それを見送る側のさみしさは中越地震の際の山を離れる子ども達や保護者から何度も聞いていたことであり、あの頃を思い出しました。その頃、同じ時間を過ごした「ともだち」である山古志の小学生は立派に成長し今は支える側として活動してくれています。

 

東松島市野蒜小と統合し、4月から宮野森小として新たなスタートを切る宮戸小(児童18人)の閉校式が3月20日にあり、にゃんこ隊の3人も招待をされ参加をしました。その歴史は古く、 1873(明治6)年創立の旧四ケ浜小から142年にわたり、地域に親しまれてきた歴史と伝統に別れを告げました。教職員、児童、来賓、保護者、住民ら約230人が出席。18人の児童はステージ前に並び宮戸小での思い出話を元気に披露。「宮戸魂の誇りを持って頑張っていきたい」と決意を語りました。式後の感謝の会では、児童が28年の歴史を誇る宮戸島太鼓の「鳴瀬清流登り打ち」「宮戸島豊漁太鼓」を演奏したほか、宮戸音頭を教職員や住民らが加わって踊る場面もありました。校庭では記念碑の除幕式もありました。宮戸小の卒業生はこれまで1609人が巣立ち、児童数は最も多い年度で293人いましたが、年々減少し、2007年からは複式学級となり、最後の入学児童となった1年生は1人でした。東日本大震災では900人の一時避難者を受け入れました。

 

地震発生から3週間後に訪問した際の体育館は避難所として機能しており、足の踏み場もないくらいの毛布がしかれ、荷物であふれかえっていたことを思い出します。にゃんこ隊の活動拠点は1番仮設住宅の多い月浜仮設住宅談話室でしたが、時々、宮戸小仮設談話室も利用させてもらいました。2階校舎からは今も校庭に仮設住宅を見下ろすことができます。仮設となるグランドで不自由な生活があったこともあり、にゃんこ隊が毎月訪問すると四季を問わずに毎回、浜全体を使った鬼ごっこ(逃走中)、でこぼこの広場(月浜球場)での野球は恒例となっていました。保護者からも「家ではゲームしかしないから、隊長さん、外で遊ぶ時はゲーム止めて、外で遊ばせて」と毎回のように言われていたことを思い出します。どんなに寒くても、多少の雨でも外で遊んでいたのは、今思えば校庭で思い切り普段遊べないという我慢があったのだと思います。目に見えない我慢や不自由は子ども達の中にもあり、そこに5年間「ともだち」として寄り添い続け活動できたことは僕らにとっても嬉しいことです。月浜仮設は5年目を迎える3月11日前に解体されます。12月末には月浜仮設で生活していた3軒も大規模な仮設に一旦集約し、夏には新居や復興住宅に引っ越しをされるそうです。ようやく復興に向けた生活の場でのお正月を迎えることになります。

 

<参加した大学生の感想(中越地震時 小学4年生)>

 

今回の訪問では宮戸小学校の閉校式に参加させていただいた。私自身約半年ぶりの訪問でこどもたちとの再会が非常に楽しみでした。宮戸小学校の18人の児童のほとんどがニャンコ隊の活動に来てくれていたこともあり、みんなの顔を見ることができてとても安心しました。式典では宮戸小学校の歴史、震災後の閉校までの歩みなどが紹介され、あらためて震災が与えたもの大きさを実感させられた。私はこういった一つの学校がなくなってしまうということに立ち会うのが初めてであり、こどもたち、そして地域に与えるものがどれほど大きいのかを計り知ることはできないが、違う学校と合併することなどによるこどもたちへの影響は小さくないであろうと思う。しかし、式典の最後の「児童の言葉」を堂々と精一杯発表しているこどもたちの姿を見てそんな心配はいらないなと感じた。少しのことで泣いてしまったり、自分の思っていることをはっきりということができなかったりしていた出会ったばかりの頃とは全く違い、本当に一歩一歩大人に近づいていると思ったからだ。そして今回の閉校式とこどもたちの成長の一つのきっかけとなったのではないだろうか。これからも宮戸との交流を通してこどもたちの成長を感じながら自分自身も成長していけたらなと思う。

 

新潟県長岡市山古志虫亀 斎藤 健輔

 

<参加した高校生の感想(中越地震時 保育園年長)>

 

今回宮戸小学校の閉校式に出席させていただいてとても貴重な体験になりました。普段見られない子どもたちの大人の姿も見れたし、宮戸島の太鼓や踊りも見させていただきました。普段はしゃいでいる無邪気な姿しか見たことがなかったので「今回の閉校式で大人になったんだな」と感じたと同時に、私たちみたいに被災者から被災者へと交流して行って欲しいと思いました。また、宮戸島の太鼓では1年生から6年生全員がかっこよく力強く叩いていました。あんなに難しい太鼓を叩けていたのでとても感動しました。これからもこの先も交流していき支援し続けたいとあらためて思いました。本当に貴重な体験ができて良かったです。

 

新潟県長岡市山古志南平 畔上 晃樹

 

<災害応援にゃんこ隊 代表として>

 

 閉校式での児童の言葉の力強い全員でのコール、「あすという日が」という歌にこめたこれまでの感謝の気持ちと未来への希望を込めての熱唱、普段見せることのない歯を食いしばった真剣な表情と勇ましい姿の宮戸島太鼓など全てが新鮮でした。5年間の「遊び」を通した交流からは見ることができない立派な成長した姿が今も目に焼き付いています。

 

 1年前に閉校すると同時にその校舎も無くなり、東松島市の体験施設になると聞いた時は本当にショックを受けたことを思いだします。僕の驚きやさみしい気持ちの何倍も、住民の方や子ども達は衝撃を受けたと閉校式での校長先生、市長、教育長、閉校式実行委員長でもある保護者の挨拶で実感しました。宮戸小に対する愛情は僕が思っていたよりも深く、地域での活動の拠点となっていたことが式典から伝わってきました。

 

 僕らはその長い歴史のたったの5年しか関わっていないという思いもあり、式典参加を依頼された時、正直迷いもありました。ただ、「子ども達にとっては、にゃんこ隊との5年は本当に濃いものだから」と何人もの保護者に言われ、これまでの活動が少しは子どもやご家族にとって役に立っていることだと振り返ることができました。僕らの活動の基本は「我慢している分半端なく遊んだり、半端なくイベントで景品をゲットする」ということを中越地震から続けています。また、最近強く思うのは、仮設住宅に住んでいる、半壊した住宅をリフォームする、被害はなかったなど被害の状況は違っていても、「被災した」ということはなんら変わりないということです。その子ども達が、多い時には25人、にゃんこ隊を合わせると30人で昼ごはんを一緒に食べます。早朝に新潟を出発し、10時半過ぎに宮城に着くと「今日の昼なに?なに作るの?」と毎回子どもから聞かれます。まるで母親に夕飯を聞く子どものようです。このような大きな家族のように、みんなで食べるご飯は最高です。そんな日常にはない光景を僕らも楽しみにして通っています。分け隔てなく、子ども達と一緒に過ごすことができた素敵な時間と同じくらい、閉校式での子ども達の姿を見れたことは僕らにとってもしあわせな時間でした。

 

 大学生が心配してくれたように、以前は野球で打てないと怒って止めてしまっていたような子どもにとっては、少人数から、2030人クラスで大丈夫かなという思いがないわけでもありません。かつて、山古志小の子ども達も町の学校を間借りして通っていた時、ぶつかることがありました。けれど、山っ子は強かった。あの強さは子どもだけのものではなく、穏やかでのんびりとした温かい地域のパワーや安心があったことは間違いありません。宮戸っ子もそんな目に見えない支えやパワーがあるから大丈夫と感じることができる閉校式でした。宮戸っ子も強いぞ。

 

 「宮戸小学校ありがとう」これからも、ともだちとして、子ども達を応援します。

 

災害応援にゃんこ隊 代表 河合 純

 

閉校式の立派な子どもたちの写真も入ったにゃんこ隊通信は以下をクリックしてご覧ください。

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東日本大震災 にゃんこ隊通信宮戸小学校閉校式 160224
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